◉日々のツレヅレ

ある男の日本シリーズ

日本シリーズが終わった。

戦っていたのは選手達だけじゃない。

第6戦、第7戦にまつわる、ある男の苦悩の物語がそこにはあった。

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その男が住む岐阜県の瑞穂市には「つどいの泉」という施設がある。

ちょっとしたトレーニング機器と歩行用の簡易プールがある公共施設だ。


彼は去年から瑞穂市民になって、この施設をずっと利用したいと思っていた。

しかし、この施設を利用するには一度講習会というものに参加しなくてはならない。

しかもその月3回しかない講習会が、いつも平日の午後だったりするからずっと行けなかった。


働いている人間を無視した、お役所主導のスタンスに彼は腹を立てていた。

そんな男の想いと同じような抗議が、この施設に大量に来ていたらしい。

ついに土曜日の18:45という時間に講習会が開催される運びとなった。


男は今月の頭に、迷わず講習会参加の申し込みを済ませていた。

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時は流れて講習会の日がやって来た。


その日がまさかの日本シリーズ第6戦の試合日、試合時間にジャストヒット。

熱烈なドラゴンズファンで知られる彼にとって、全く予期していなかったイレギュラーバウンド。

過酷な選択を迫られる男。


応援チームの日本シリーズなんて、そうしょっちゅう見られるものではない。

しかも、ホークス王手の崖っぷちの大事な試合だ。絶対観たい。


しかし休日の「つどいの泉」講習会だって、そう何度も訪れるチャンスではない。

ネーミングの割には全く「つどう」チャンスのない貴重な講習会だ。


男は決断した。

講習会と言ってもマシンの使い方を20分くらい教わる程度の、形だけのものだろう。

それが終わってから帰れば、7時半くらいから試合が見られる。

今までの流れだと、どうせ0対0くらいでちょうどいいだろう。

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講習会が始まった。

指導員と呼ばれる男が、おもむろにホワイトボードで講義をはじめた。

「生活習慣病とは何ぞや」から講義がスタートした。


何だ?マシンの説明だけではないのか?

そもそもこの指導員自体が小太りな男なのに、糖尿病は危険だと力説し始めたぞ。

まるで説得力がない。というか話が長そうだ。


焦り始める男をよそに、指導員の説明はより一層熱を帯び始める。

懇切丁寧な解説。

人間の体の仕組みから、各筋肉部の役割。運動に最適な心拍数の計算方程式等々。


すごく役に立つ情報なんだが、今現在男が求めている情報は「試合の行方」とこの「講習会の行方」だ。


指導員は言った。

「分からない事があればいつでも聞いて下さいね。時間はタップリありますからね。」


男の額に汗が吹き出す。

運動もしていないのにすごいダイエット効果だ。


その後も延々と続く筋肉講義。

いよいよ「赤筋」「白筋」等といったコアな話題にまで話が及んだ。


その時講義室に鳴り響く携帯電話の着信音。

すぐ終わると思っていたから、マナーモードにしていなかった彼の携帯だ。

指導員と他の参加者がざわつく。

男は冷や汗にまみれて、だんまりを決め込んだ。


男は嫁に「30分くらいで帰る」と言っていたから、恐らく彼の嫁の怒りの電話だろう。

携帯は離れた場所にある荷物の中でどうする事も出来ない。

鳴り止んだと思ったら、再び鳴り出す携帯電話。

さすがに針のむしろに耐えきれなくなった男は、「すみません、僕の携帯です」と惨めに名乗り出る。

皆さんの視線が、冷ややかに男に注がれた。


試合は見れないが、日本シリーズのマウンドに上がって点を取られたピッチャーの気持ちだけは味わえた。

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やがて時間は過ぎ、講義が終わった。


開始から実に2時間の時間が経過していた。

結局マシンの使い方は、最後の10分くらいで簡単に済まされた。

そこには憔悴しきった男の哀れな姿があった。


男は猛ダッシュで家に帰った。

家のテレビにしがみつく男。

画面には「締めの男」浅尾拓也が写っていた。


そう、まさに試合が終わるその瞬間だった。

男の日本シリーズ第6戦の観戦時間は、わずか2分だった。

ドラゴンズの勝利にも、素直に喜べない男の切ない夜が更けて行った。

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翌日、日本シリーズ第7戦。

今日で全てが決まる最終決戦。

今日は何が何でも試合を観るという強い気持ちが男を支配していた。


夕方。

彼の息子のりんたろくんがやたらと早い時間に眠ってしまった。

いつも息子を風呂に入れて寝かしつけるのが男の役目なので、これで彼は心ゆくまで野球観戦が可能になった。

気合いを入れてテレビの前で応援する男。


しかし次第に男は、全く打てない中日打線に苛立ち始める。

挙げ句、3回の裏まさかの押し出しフォアボールで先制点献上。


押し出しの瞬間「うああ!」と叫んだ男に、彼の飼い犬が驚き激しく吠え始める。

その騒ぎでりんたろくんが目を覚まして号泣。

手が付けられないほどに泣きわめく彼の息子。


息子は何故か「ブーブー(車のこと)!いく、ブーブー!」と泣き叫ぶ。

これは車に乗せないと落ち着いてくれない状況だ。

結局嫁にもせかされるまま、男と嫁と子供は車に乗り込む。


こんな大事な局面で、男はなぜかドライブをするはめとなった。

とにかく子供が落ち着いて寝付くまで、延々と近所を車で徘徊する。

ナビの画面でテレビを見る事は出来るが、嫁の命令で子供のために「はたらく車」のDVDを流す事に。

熱烈なドラゴンズファンである彼は、最終決戦の大一番の試合開催中に「ブルドーザー」や「消防車」などいった働く車達をただ呆然と眺める事しか出来なかった。


しだいにりんたろくんも落ち着いて目を閉じ始めたので、すかさずナビの画面をテレビに切り替える。

もちろん音量は無音のサイレント観戦。


画面には再び中日の大ピンチが映し出されていた。

ソフトバンクめ、電話回線は全く繋がらないくせに打線ばっかり繋がりやがって。

そして男の眼前に映し出されたのは、ソフトバンク山崎のタイムリーヒット。


「くそう!」って叫びたかったが、りんたろくんが目覚めてしまうので「ぎゅぅぅ」っとハンドルを握りしめるのみ。

溜まって行く男のフラストレーション。

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やがて完全にりんたろくんが眠ったので帰宅。

試合は既に中盤が過ぎ、7回のイニングに入っていた。

打席には和田が立っていた。


やっと落ち着いて観戦が出来るぞ。

ここから怒濤の反撃だ。

そしてここからの中日打線の破壊力がすごかった。


和田:空三振
平田:四球
藤井:空三振、7回終了

谷繁:空三振
野本:空三振
荒木:空三振、8回終了

井端:ラッキーな内野安打
森野:内野ゴロ
ブランコ:外野フライ
和田:空三振、試合終了


男にとって、拷問のような3イニング。

これぞ恐竜打線。恐ろしいほど打てなかった。


結局、この2戦を通じて男が観たヒットは内野安打の一本のみ。

しかもピッチャーに当たってヒットになったラッキー安打。


彼はマグロのような顔で秋山監督の胴上げを眺めていたらしい。


そして秋山監督の勝利監督インタビューで、震災関連の感動的なコメントが始まった。

お、これはとてもいいことを言っているぞと男は感動した。

と思ったら、いきなり画面は日曜劇場「南極大陸」に切り替わった。


再び立ち尽くす男。

眼前には南極の寒々しい光景が広がっていた。

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こうして男の日本シリーズが終わった。

いろんな意味で悔しすぎる2日間だった。


試合終了後、彼の携帯に会社から電話がかかって来た。

「感動ありがとうセール」の追加看板依頼があったから明日は早出するようにとの事。

打ちひしがれた男に対する、絵に描いたような無情な追い打ち。


翌日、男は「負けパターン」の追加看板を作るため朝の5時半に家を出た。

こうして男は、また来シーズンに向けて動き出したのである。


落合監督、お疲れ様でした。

そして男よ、あんたもお疲れ様だ。

希望を胸に生きてゆけよ。



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